コロナ終息に向けて:各国レポート(13)イタリア

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子どもたちとロックダウン

飯田亮介

2ヶ月あまりの長きにわたり続いたイタリアの全国ロックダウンが5月8日にようやく緩和され、不要不急以外の外出も許されるようになった。

今まで何が辛かったって、運動不足がいちばん辛かった。僕の場合、運動不足は即、便秘(失礼!)につながり、便秘はイライラを呼び、僕のイライラは一家の不幸となるからだ。これはなかなかに真剣な問題なのである。

だから今、何が一番うれしいかと言えば、また大手を振ってジョギングに行けるようになったことだ。

次にうれしいのは、散歩にも、営業再開したバールにも、レストランにもまた子どもたちを連れていけるようになったことだ。何せ完全なロックダウン中は、特別な理由がなければ、子どもたちを家の敷地の外に出すことさえできなかったのだから。

わが家の9歳の長女と5歳の次女は、狭い家の中でもふたりで楽しく遊んで過ごせるほうだ。その点、ひとりっ子でないだけでも幸いだった。でも娘たちが何よりも恵まれていたのは、大騒ぎして跳ね回ることもできる、ちょっとした庭と広いテラスがあったことだと思う。ふたりが庭で遊ぶ姿を見るたびに、僕は罪悪感めいた気持ちとともに、大都会の集合住宅で暮らす子どもたちは(そしてその親たちは)どうしているのだろうか、と心配になった。

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僕が暮らしているのは中部イタリアの田舎の小さな村(人口約1,000人)で、みんな顔見知りみたいなものだから、実はロックダウン中でも、近所の子どもたちが自分の家の近くを散歩しているくらいならば、目くじらを立てて大人が叱り飛ばす、という場面はなかった。でも、大きな町の子どもたちはいったいどうしていたのだろう。今回の危機を通じて、そのあたりがメディアで語られることがあまりなかったように思う。

テレビはほとんど見ないので、主にこちらのラジオ・新聞・ネットメディアを介しての印象だが、とにかく「大人たちが」この危機をどう乗り切るか、どう苦労しているか、という話ばかりで、子どもたちはどう過ごせばいいのか、今どうしているのか、という話を聞いた記憶があまりない。せいぜい、超長期におよぶ学級封鎖(今のところ9月半ばまでの予定)のあいだ、いきなりパソコンを使ったリモート授業を行うことになった先生たちの苦労話のついでに、家庭環境の格差から子どもたちも苦労しているといった話くらいだろうか。

もちろん「まずは大人たちが国を、経済をどうにか回していかなければ、子どもだって食べていけない。だから、とりあえず大人が先」という理屈もわからないではない。でもその大人のなかには、かなりの割合で子どものいる親がいるはずだ。だから、親たちはみんなどうしていたんだろう、と僕は思ってしまう。表に遊びに行けない理由を、友だちと一緒に遊べない理由を、ソーシャルディスタンスを保つべき理由を、どう子どもたちに説明すべきなのか。また、大人は仕事があるからと言って、子どもにはタブレットPCを与えておくだけで本当にいいのか。普段にまして多い宿題の手伝いを誰がいつすればいいのか。こんな状態がいつまで続くと子どもたちには伝えればいいのか……。そういった子どもの(そして親の)ための論点がメディアで語られることがあまりに少なかった気がするのだ。

ロックダウン中、あれこれ規制があるなかで、子どもたちの日常生活について明確に触れた規定は、学級封鎖のそれを除けば、「公園・遊具の利用禁止」くらいしかなかった。あとは集合の禁止、外出の禁止といった、やはり大人視点のルールが子ども「にも」適用されるという、「ついで」感が常にあった。

今日も僕はジョギングに出かけ、村の外れで子どもたちが遊んでいるところにさしかかった。本当はまだ他の家の子たちと大勢で集まって遊ぶことは禁じられているはずだ。隠れて遊んでいたのだろう。なかにはマスクもせずに友だちとじゃれあっている子もいた。その子は僕に気づくと、バツが悪そうな顔をした。でも、なんだかこちらのほうがいたたまれない気持ちになった。先月、僕が訳出した『コロナの時代の僕ら』で、作者パオロ・ジョルダーノも言っていたが、こんな状況を生んだ責任のかなりの部分は、どうやら大人である自分たちにあるみたいだから。


飯田亮介(いいだ・りょうすけ):イタリア語翻訳者。イタリア中部・モントットーネ村在住。https://note.com/giapponjin