コロナ終息に向けて:各国レポート最終回(16)アイルランド

アイルランド

 

アイルランド(人口約512万人)

石川麻衣

世の中がシフトするのを肌で感じたのは、今年の2月頃のことだった。その頃、街中のカフェで、知り合いの演劇人6人と鉢合わせた。ダブリンの街は意外と狭い。人と偶然会うことは珍しくないが、6人はさすがに多い。その時、長い夢から覚めたような、不思議な感覚に陥った。まだ終息とは言えないが、パンデミックの峠を越えたのかもしれないと感じた瞬間だった。

持病のある高齢者がマスクをしている姿は時折見かけるが、もうずいぶん前からアイルランドではマスクをする習慣はなくなっている。公共交通機関では必ずマスクをしていた私も、おのずと今年のはじめ頃から着用しなくなった。医療機関でのマスク着用義務も今年の4月半ばには解除されている。近所の女性たちは、コロナ禍について、「儚い夢のようだった」と語る。ソーシャルディスタンスは、跡形もなく消え去った。あらゆるコロナ禍の習慣が過去のものになりつつあるなか、残っているのはZoomとキャッシュレスくらいだろうか。Zoomは、会議やシンポジウム、また、私が参加している物書き向けの講座でも頻繁に使われている。最近では、従業員が雇用者に対してリモート勤務を要求できる法案が通ったそうだ。「ハイブリッド・ワーキング」が当たり前になりつつあるのだ。

また、先日、Fishambleというアイルランドの劇団が、アイリッシュ・アメリカ人劇作家とアイリッシュ・パレスチナ人劇作家の共作の戯曲リーディングを、ワシントンDCとダブリンの会場をネットで繋げてリモートで行った。大西洋を挟んで、別々の会場(観客あり)に待機する2人の役者は、画面を通して演技をする。これも、コロナ禍のなかデジタルを駆使して作品を発表し続けたからこその試みだろうか。

新緑に覆われたアイルランド国立ボタニカル・ガーデン

コロナ以後の印象的な出来事と言えば、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻後、難民の大量流入が引き金となり勢いを増している反移民デモだ。今年に入ってから、ダブリンだけで125回(2023年4月半ばまでの回数)反移民デモが行われたという。去年1年間では、300回以上にも及ぶ。「アイルランドは満杯だ」、「アイリッシュ・ライヴズ・マター(アイリッシュの命も大切だ)」などというスローガンを掲げ、今のところ勢いが収まる気配はない。現在、アイルランドは深刻な住宅危機に悩まされている。そこに難民危機が重なり、さらに深刻化した。2022年のヘイトクライムの数は、前年に比べて29%増加したそうだが、こうした風潮の根底にあるのは、レイシズムというより、住宅や医療のサービスが行き届いていない労働者階級の怒りのような印象を受ける。デモを先導している集団は「移民男性によって女性と子供の安全が脅かされている」などと、プロパガンダを使って脆い市民の心を煽り、多くの女性の支持を得ている。彼らは、コロナ禍に、ワクチン陰謀説を説いていた集団だという。

近所の一軒家に44名もの移民が住んでいるという話を聞いた。家の前に置かれたゴミ用のタンクはいつもゴミで溢れており、常にブラインドが下がっている。1部屋に何台もの2段ベッドが設置されているのだとか。それでも、家賃としてひとり月に約400~600ユーロ(約6~9万円)支払うというのだから、住居の需要の高さがうかがえる。

また先日は、難民のテントが反移民の人たちによって燃やされるという事件が起きた。難民宿泊施設の提供が追いついておらず、野宿をする難民も少なくない。私が住む通りには、ウクライナの難民女性に部屋を貸している人がいる一方で、反移民デモに参加している人もいる。人々の間で、ちょっとした分断が生まれているのかもしれない。

一方で、移民たちを歓迎する動きも確実に強まっている。少し前まで、アイルランド演劇界はほぼ白人一色だったが、最近はグローバル・マジョリティ(白人目線の「エスニック・マイノリティー」に代わって使われている言葉)を雇う努力があちこちで見受けられるようになった。

白鳥の家族

そんな世の動きを横目に、私は個人的にゴミ拾い活動をはじめた。以前ほどではないが、まだマスクが道端にちらほら落ちているのを見かける。コロナ前はマスクを購入するのさえ困難だったことを考えると、風邪予防として少しはマスクが定着しているのかもしれない。コロナ禍で自然のありがたみを知った私たちだが、路上に落ちているゴミの量を見ると、そんなことも儚い夢にすぎなかったのかと思える。

今ちょうど巣作りをしている白鳥は、プラスチックと葦の見分けがつかない。巣の中に、葦に紛れて赤いコカ・コーラのラベルがまぶしく光っていた。


石川麻衣(いしかわ・まい):通訳、英日翻訳家(主に演劇、芸術関係)、ナレーター。国際演劇協会会員。アイルランド・ダブリン在住